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宇宙からの導線と人間界への報復③

 投稿者:chikara  投稿日:2017年 4月18日(火)01時04分2秒
返信・引用
  「時効の亡霊」時効成立とともに「針のムシロに座る者」。
??勝人がまず原因をつくり、杖田が昭和57年5月4日から狂ったように不正を始めだした。本人はどう思っているのだろうか。「死んで地獄、生きて地獄」状態だと思う。そして子供たち(身内)も同じ。三賀森家でもまた同じ。滝見口の市営アパートで「村川」そして子供たち(身内)も同じ。市役所や法務局で私と応対した人。今の知事、県警本部長、浜田市長、法務大臣もまた同じ。「死んで地獄、生きて地獄」。「時効の亡霊」に死ぬまで思い踊らされるのである。
 
 

宇宙からの導線と人間界への報復②

 投稿者:chikara  投稿日:2017年 4月17日(月)06時19分11秒
返信・引用 編集済
  小悪な二人。杖田、三賀森は昭和57年~平成4年の間で「栗栖(杖田の娘婿・法務局勤務)」を使い役場の土地台帳や法務局の登記簿の名義変更や土地番地の分筆や番号変更を繰り返し私の先祖代々の土地を売りとばしている。「ガンダの防護壁や町道」「滝見口の市営アパートの土地」総額で1億円以上。弁護士に相談するも「時効」というものがあって最長20年。弁護が出来ないという人ばかり。
叔父がポツリと言った、三賀森が2千万取ったという噂話があった。「栗栖」は死んどるでぇ。そういえば、平成17年2月19日死亡、ホテルハリモの初代社長は叔父にあたるのだが、その葬儀の時、県議に「清茂」の息子でぇ。その瞬間、県議の顔が真っ赤になった。県議はソ連・シベリア帰りで、父と同級生。父は益田警察署勤務で帰還した時大変お世話したらしい。米・食糧をもっていったようだ。三隅川鉄道橋が架かってない時代。それで、三隅開発は「清茂」の土地を中心に青写真を作成している。二人が恩を仇で返したことで
憤慨されたのであろう。その時「栗栖」が自殺したのであろう。県議は墓の中まで不正のことを黙ったままもっていった。だがしかし、「時効の亡霊」におどろされた馬鹿者がいる。栗栖自殺事件発生時の浜田警察署署長、島根県知事、島根県警察本部長、浜田法務局支局長、法務大臣の5名は法曹界の者ではないが、遵守する側でありながら、被害者の私に連絡してない。「時効の亡霊」が暴れまくる。詐欺の時効は7年でだまされた県や町は回収することはできない。土地登記簿操作は13年でまだ時効になってない。島根県と浜田市(三隅町)は訳1億円を支払う義務が発生したのである。あげく法定利息の5%を複利計算して支払わなければならないのになにもしていない。弁護士をつうじ「栗栖の自殺以降、事件詳細があきらかになった時点から5名の給与・報酬並びに退職金の回収を裁判所にお願いする予定。5%の法定利息も。私の家は昭和58年の水害で被災しているのに、火事場の大泥棒の二人とそれ以上の悪玉5人衆だ。「時効の亡霊」はまだまだ。5名は日本の道を歩くなと言いたい。
 

中山たたら遺跡・図書情報

 投稿者:chikara  投稿日:2017年 4月16日(日)18時10分55秒
返信・引用
  ①中山鈩遺跡「中山たたら遺跡 緊急発掘調査報告」三隅町教育委員会1983
②「たたら研究 第27号」たたら研究会1985 P14~25たたら炉床構造の推移について―島根県内調査例から―杉原清一の中の⑮「中山鈩跡・遺跡」。
①は島根県立図書館と邑南町立図書館本館。
②は邑南町立図書館本館と広島大学図書館。
 

宇宙からの導線と人間界への報復①

 投稿者:chikara  投稿日:2017年 4月16日(日)17時05分10秒
返信・引用 編集済
  遺跡の破壊。三隅町の幹部と県議会議長のしれかしたこと。地元住民にお金を落とした3名。三賀森町長、杖田建設課長、土田県議である。
その1「うしろえき」と呼ばれた鎌倉時代の元寇対策防御堤の150m。今は古湊湾岸道路になっている。
その2「天気予報の娘の声」が聞こえた中山たたら遺跡。「古事記」にも記載あり、弥生~古墳時代を調べる上で重要であったが、地域開発の名のもと破壊された。7世紀終わり頃オオクニヌシの命により青浦に派遣された海部(うみべ・漁師)こと若狭物部がこの大穴を占拠し1000年もの間、物部族の長(をさ)を務めた。近隣の物部族地区と出身。松原=越物部族。須津=能登物部族。土田=安濃物部族。高島も同じ。木部(大谷)も同じ。江津や三瓶山の麓の伝承(1300年間語り)。「海が大シケになる前に吹く風で娘の声が聞こえた」。貴布禰神社の主祭神。「淤迦美娘」古事記の記載「文字」。「おかみ」=「雨」カンムリに 「龍」と書いた。墨倹約の為、「雨」は「天」。「龍」は「神」となった。古事記、日本書紀、万葉集、出雲国風土記と使用された。…今遺跡の場所は「浜田市立岡見小学校」。
 

稲羽の素兎

 投稿者:chikara  投稿日:2017年 4月 4日(火)02時59分17秒
返信・引用 編集済
  「古事記・稲羽の素兎」話は2部構成で 1. 兎の海を渡る話。
地 名=「氣多前」・ketamae = 出雲勢力の土地 =火山灰の降る怪しく変な地形が多い国のひとつの前まで。「和邇(わに)」= 鯨くじら・和邇族(第三の海人の作った)軍船。どこに、上 陸しようとしたか。 島根半島・中部の北で「鬼島」・鬼刀禰(おおとね)族・たたら製鉄の民。「大黒島」=大黒天(だいこくてん)=インドの攻撃の 神。上陸の寸前に「八」=出雲勢力のことで、人麻呂・得意の略字、八を書き。中に縦に棒線を引き、次ぎに二の字を書くと「出」、雲なんてめんどうだったの だろう。鬼刀禰なんてとんでもない。兎=兵 は日焼けした肌を切られてしまった。
2. 人麻呂・不比等・行基と小野族・鬼刀禰族・忌部族・関東の 蝦夷人で、出雲王朝を倒した話。大黒天が言った。水門(境水道)から真水へむかい(宍道湖から簸伊川の)蒲黄(ほおう)<葉や花粉を乾燥させると傷薬 となる。がまの三種のひとつ>をのぼりそこ(物部の本拠・一大率・大社)を倒しなさい。「稲羽」は季節のことで、(昔は平野いっぱいに米の実りがあった が、三瓶噴火により灰が降り注ぎ、日照不足で取れない。そこで物部たちは、東へ東へと勢力を延ばし、あるものは南へと、「氣(け)多(た)」とか「八氣 (やぎ)」あやしげな土地名)米の収穫に行った為、守りが手薄と知っていた。人麻呂も行基もこの地は初めてでない。 境水道入口付近。松江市美保関町に三 保神社(昔鯨が群れをなして現れその1頭が固まって島となったそうだ。また毎年正月に神社に鯨が参拝するそうだ)これが(水道・海中)鯨島である=人麻呂 のうわさ・昔話のたぐい。 唐の進駐軍が来たとき、徹底的にやりこめられる事を知っていた。
・実地調査 2014/09/26
*松江市役所美保関支所0852 55 5740のみなさま
* 松江市美保関町菅浦の漁師さんに聞いたところ「大黒島」おおぐしま、(「小黒島」こぐしま)、「鬼島」おにしま、と呼んでいる。また、昔ばなしとか 伝承とかもない。・・・・・・しかし、人麻呂が、話、教えた、事が、1300年後に文字として残っているのは、石見の巨人・おおひと伝説とあわせても おもしろい、すごい話である。
・島根県立図書館 蔵書
*「片江郷土誌」片江郷土誌編纂委員会1965 P10.11
*「大社町史」上巻 大社町史編集委員会1991 P32~36
*「出雲市誌」出雲市誌復刻刊行郷土誌刊行会 出雲市役所1951 P38
人 麻呂のつくった話で、三瓶山の爆発は西暦663年、いまも煙(灰)が上がるのが、確認できる。(いまと言うのは、人麻呂が赴任した西暦702~703年 頃)これに上記の「片江郷土誌」の「美保関灯台の風向き記録S33/04月~S37/03月までの風向きと風速毎秒6以上の風向き回数」統計表。「大社町 史」上巻で平成元年(1989)の月間天気日数表・大社、松江、松江気象台資料。「出雲市誌」のS16~25年の出雲市の日照時間と風向きおよび風速の 表。やはり、灰混じりの三瓶山噴煙は、簸川平野の米作をダメ(日照不足)にしている。出雲勢力である、物部族は、東(特に)へ、西へ、南へと領土を拡大 した。食料と唐・新羅への輸出品としての米確保は、絶対であった。ここで「古事記」の稲羽の兎の「稲羽」は季節を表し、一大率(将軍)のそばの家来も当 然、東国へ稲刈りに向かったはず。大黒天は攻撃の神様であるから、出雲大社は手薄(守りが薄い)、物部族を倒しなさい・倒れる。簸伊川の蒲黄を上り
攻撃すれば将軍が倒れるというはなし。物部倒しを「古事記」に入れとかなければと人麻呂も不比等とも、思ったに違いない。
 

伝承

 投稿者:chikara  投稿日:2017年 4月 4日(火)02時35分28秒
返信・引用
  1300年前、石見の国で人麻呂は、対 物部族戦略。
石見地方のむかし話で、巨人の伝説;柿本人麻呂・作で行基(ぎょうき)の協力でできたもの。わかった事。
①巨人=物部族=出雲一大率(将軍)勢=敵。
②どこらへんか・場所=山名で、しめす・名付け地の人に教える。
③物部・出雲勢力=「キーワード」をしめす・名付け地の人に教える。
④物部族の神 大山祇 神・命・尊・金子神 大山津見神 を祭る神社が近くに存在。
*①浜田市「折居海岸」 ②「大糞山(おおぐそやま)」(三隅町井野)「 ③「大神山(おおやま)」=大麻山 *井野にたたら製鉄の跡(大穴)があった。今在住の人に聞いたが分からない。④873 八幡宮 境内神社の一つ、三島神社 (井野村蛇山)・大山祇命
*①益田市「土田海岸」②「大神山(おおやま)」ふもと たたら製鉄跡の大きな穴・三隅町岡見) ③「唐音の蛇岩」④1066三剣神社(鎌手村金山)・大山祇命
「大穴」= 海に向いていてシケるまえに音が鳴る。風向きでなる。石見の国の海の関係者に感謝されたらしい。現存しない。*中山鈩(たたら)遺跡.・たたら製鉄の跡。*サヒメ言「足長土が土田海岸から高島へ渡のをみた。」
*①江津市「浅利海岸」 ②「どびん山」=室神山(みかみやま)または浅利富士(上津井の上畑神社~井田の大人おおひと・(江津市松川町)南に江の川。 ③「八神やかみ」・地名。④735上畑神社(松川村上津井)・大山祇尊
注・ 日本の黄金時代とは、古墳時代。この頃人口の2割は渡来人で、占めていた。たたら製鉄の人(鬼(おお)刀禰(とね)族)第一の海人で日本人のルーツ、出雲の物部族は第二の海人、人麻呂や僧・行基(和邇(わに)族)は第三の海人。
 中学の頃、歴史の時間に昔話を聞いた。おおおとこが大麻山と高城山をまたぎ糞をした。「大糞山」の位置=大麻山と漁山と高城山でどこからでも2つの山が見えるから、その間のやま=「大糞山」・・・・と人麻呂が話してまわった。
名付けたのは、学者の行基。玄武岩の山で、よく肥えた土地。動物の糞は肥料として使えることを8世紀初めに知る人。表示出来る人はこの人しかいない。
それなのに浜田市は「野山岳」と変更している。
「那賀郡史」大島幾太郎 昭和15年1940完成とある地図にも「大糞山」とある。
地質学の先生の本で「-石見・畳ヶ浦と黄長石霞石―」桑田龍三 昭和63年1988下記に・「この山だけが玄武岩でできている。この辺の他の山はほとんど花崗岩。・・・玄武岩の大きな露頭がみられる。ここと他に3ヶ所・萩の明神池・出雲の大根島・浜田の長浜台地が霞石(玄武岩)である」。という事は、物部族はすべてを知っている。大根島の「土」をひと握り持たせ探させ、入埴している。
〇花崗岩・かこうがん・・・たたら製鉄の材料。
 

古事記、日本書紀、サヒメと大人の作者

 投稿者:chikara  投稿日:2017年 4月 4日(火)00時35分35秒
返信・引用
  柿本神社(益田市・戸田)の文献で、石見の地に7歳の天才現る。例1・人麻呂が他の場所で生まれ、7歳になった時に石見の地に来た。例2・石見の地で生まれ育ち7歳になり、天才ぶりを発揮する。私が思うに、前者の例1と思う。
  また、三隅町・小野集会所から三隅川に沿い岡崎を下り八曾(やそ)にて潮風に誘われ現在JRの通るところを抜けると田ノ浦海岸(三隅町湊浦)となる。そこ に鰐(わに)島・(どう見ても大きなクジラ)がある。そこまでの距離は2Kmで、10歳たらずの子供で人麻呂が奈良県桜井市で生まれたとして、海を見た いという好奇心から歩いたり走ったりして40分くらいの所だから、鰐島・4m(よこ) × 10~11m(ながさ) × 3m(たかさ) がより大きく見えたはずである。そこで、古事記の稲羽の素兎の話を彼がつくったとしたら、いつ。新羅の都攻め(藤原不比等や行基とともに)失敗のとき、命 からがら(人麻呂にとって人生2度目),隠岐に逃げたとき、波の彼方に見える、島根半島や大山(だいせん)を見ながら創作したのでしょう。行基がf舟を造る間(幾日も幾 日も待ったのでしょう)。この話に出てくる、和邇(わに)は、少年の日に見た、田ノ浦の鰐島(巨大な岩島)である。
712年に古事記が完成。こ の話は、日本書紀(完成720年)には記載なく、その後作成された出雲の風土記に記載なく因幡の風土記は現存しな い。昔話で「狭姫(サヒメ)と巨人(おおひと)」二部構成になっていて。雁(かり)の背に乗るほど小さい乙子狭姫(おとこざひめ)は朝鮮のソシモリから (雁に乗って)五穀の神である母(死にぎわ)に種を授けられ、大田市の巨人の住む佐比売山(現在の三瓶山)・原っぱへやってきた。オカミと話をした(佐 比売山の噴火は大山祇巨人の放屁が原因)。また、サヒメは実際に足長土が土田海岸から高島へ歩いて渡るのをみた。この後の話が、五穀伝来の話(米の都茂郷 種 村へ下り)。浜田市三隅町の「岡見」や「須津(すづ)の大島」や福浦沖の「鹿島」、益田市の「高島」や鎌手の「亀島」、赤雁の比礼振山(権現山)「種」 などの地名が挿入されている。これは、石見の国(大田市~益田市)を東に西に駆け抜けた(当時は道もなかったので舟と歩行)人麻呂しか知り得ない事。ま た、1300年後の時代に紙・短歌や長 詩・ひらがな・歴史書(創作)・ペンネーム・などなどを伝へました。
注1・冒頭の柿本神社は、益田市に2か所存在。もう1つは高津。
注2・645年の大化の改新や聖徳太子の存在がまったくウソ!創作の歴史とは・・・。
注3・「氣」三瓶山が噴火し出雲大社近辺は、昼でも火山灰で暗くイオウの臭気でムンムン。
注4・「古事記」「日本書紀」「サヒメと大人(石見大神)」二書と伝説の共通点は「高島」を高い場所より見下ろしている。大麻山から見下ろしたもの。作者は不比等・人麻呂・行基・11名の鬼刀禰である。中山たたら跡、貴布禰社、金刀比羅社、彌榮社、大山(おおやま)、高島、大麻山、大糞山、三瓶山、鬱陵島、隠岐の島、大山(だいせん)はすべて連動している。
 

鎌手・おおやま・たたら<再投稿>

 投稿者:chikara  投稿日:2017年 4月 3日(月)22時57分38秒
返信・引用 編集済
      益田市の「鎌手」地名考、「二つのおおやま」考。
     弥生時代、九州北部より舟で上陸し移り住んだ民。たたら製鉄の人々。農耕作業の稲を刈る「鎌」を作る人々。
    鬼(おお)と読み。意味は、大きい精霊(神に近い存在)。位置的に上手(かみて)。鬼刀禰族の上陸地点。
    「鬼」の文字は3本の足。いつも炭を扱っているので、頭から手から足の先までカラスのように真っ黒。身長も150cm前後。
    不比等や人麻呂は、「八咫烏・やたがらす」と呼んでいた。
    ①最初は、鬼山(おおやま)->大神山(おおやま)->?{雨カンムリに龍]山(おかみのやま)->於迦美姫山(おかみのむすめのやま・古事記参照)->大山(おおやま)現在に至る。三隅町字「青浦」に住む、若狭物部族が、中山鈩(たたら)跡とともに7世紀終わりからずっと支配(江戸い時代が終焉するまで)。
    ②もう一つの鬼山(おおやま)。->大神山(おおやま)->大森山(おおもりやま)->権現山(ごんげんさん)->大麻山(たいまさん)->双子山(ふたごやま)->大麻山(たいまさん)。西の高野山と言われる。7世紀終わりに牟婁物部族が大糞山(おおぐそやま現在の野山岳)と合わせ支配したが14名の英雄が日本國を興した時、滅びた。

    踏鞴(たたら)製鉄=宮崎駿・監督の「もののけ姫」でも名前が出てくる。
    古代人は知っていた。鬼刀禰族・おお(おに)とね=「鬼」・天才、偉大なの意味。「刀」・剣や稲刈りの鎌の意味。
    「禰」・ね、一番最初の民・たみ(紀元前1000~1500年前より九州北部より)。
    鬼刀禰族は金刀比(毘)羅神社を建立してたたら製鉄を行い、「鎌」や「太刀」をつくった。
    鎌手上陸――>浜田市三隅町・岡見の大山――>三隅町・井野(室谷)の大麻山。
     鉄を作る工程は1回70時間(約3日)。
    炭を使用。必要な木材10~13トン地表面積にして1ヘクタール花崗岩(かこうがん)や砂鉄、大量の水を使用。下流では度々洪水被害をこうむる。60人くらいで分業。家族を含めると300人の大集落を形成。鉄の取れる量は微量。
    大量の水を使用する為川や沢のそばに立地。
    *たたら1:www.wakou-museum.gr.jp/iseki%20tyousa.htm
    三瓶山の噴火時、大穴へ避難して生きながらえた。
    670年に大和・春日の和邇族が、浜田市三隅町湊浦に入植。同じく大和・春日の小野族が三隅町小野に入植。この時、人麻呂は綾部氏と共に三隅町小野へ。
     次に阿波・忌部(いんべ)族(山部・麻、木綿ゆふ)の大麻山に入植。
    この頃、小野族や綾部氏と人麻呂、益田市小野地区戸田へ。
    この頃、不比等ことスサノヲは高島・大麻山や井野・室谷に植樹した。この時鬼刀禰との出会いが有った。鬼刀禰族は、たたらの大穴ちかくにスサノヲを祀る彌榮(いやさかえ)神社建立。
     次に牟婁・物部族の大麻山や室谷へ入植。この頃スサノヲと11名の鬼刀禰は、益田の石川を上り津和野へ入り植樹した。
     そして、こんどは出雲の国へ行き、川を1本1本上り、鬱陵島(うつりょう島・ウングルド)を行き来(隠岐の島経由)しながら植樹をおこなった。この時、能登に逃れていたオオクニヌシとの出会いがあった。<――いわゆる、出雲國風土記の国引き。ただし苗木を(三瓶山の噴火で、焼失した大地に)植樹した。
    *参考文献:「石見鎌手郷土史」矢富熊一郎1966
 

三瓶の噴火・再投稿

 投稿者:chikara  投稿日:2017年 4月 3日(月)22時38分3秒
返信・引用
       暦のない時代、歴史年表を造る事は、大変なこと。唐から帰った使者から、唐の暦にあてはめて
    年月を知り、稲作の循環から1年1年数え過去としている。日本では、西暦663年としている、白村江
    の戦い。中国や韓国の歴史研究家のほとんどが662年としている。ここで、1年の誤差とは何かの
    検証すると。天変地異であり、大地震(原因は三瓶山の大爆発、大噴火)が起きたこと。
    このことは、島根県益田市安田の伝承で確認ができる。663年三瓶山が噴火と莫大なエネルギのた
    め大地震が起き、数多くの建物が崩壊(実際には建物とは寺社だけである)し中国地方は焼失し、稲作もできなかった。
     662年 白村江の戦い。
     663年 三瓶山の大噴火。  これが、真の歴史で、不比等も古事記や日本書紀に書くこと
    ができなかった。なぜならば、唐國や新羅國に責め込まれれば、the End。記紀と万葉集で、
    知識人、有能な國の指導者が数多く存在したかのようにしむけた。書。

     「暦のない時代の一年」考
    「日本人の信仰心」著 前田 英樹2010のなかで、本居 宣長(もとおり のりなが)、鈴木重胤(すずき しげたね)、村岡典嗣(むらおかつねつぐ) 、 保田 與重郎(保田 与重郎、やすだ よじゅうろう)、小林 秀雄(こばやし ひでお)、柳田 國男(やなぎた くにお)著書や思想と英樹自身の歴史感を書いている。
    このなかで、柳田國男は{一日の始まりは日暮れから}といい。本居宣長は暦のない古代人は、「真暦考」1782の中で、{まず、去年(コゾ)まきおきし青菜(アヲナ)の花の咲(サケ)る見ては、苗代時(ナハシロドキ)をしり、つくりおきし麦(ムギ)の穂(ホ)のあからむを見ては、田植(タウウ)るときをしり、又その稲(イネ)の刈時(カリドキ)をもて、又麦(ムギ)まく時をしるが如く、年々にかくしてもてゆけば、いかでか其時々のしりがたきことはあらむ、教(ヲシ)へずて有るべき事を、なほこちたくをしふるは、すべてかの国人(クニビト)のくせなりかし。}
     柳田國男は「祭日考」の中で、{祭りの目的は遡るほどただひとつ、神と共に新しい米を食することである}。・・・・つまり嘗(なめ)と呼ばれた収穫後の祭りには、永い物忌(ものいみ)の期間が本来必要だったのである。伊勢には常勤の物忌の役あったので、稲が刈取られて調整を終わるならば、直ぐにも神様の祭りに取掛ることが出来た。之に反して農民は常の生活をしてゐる。それが此祭に奉仕するに適した精神状態となるには、昔は一月以上も厳しい謹慎を経なければならぬとしたのである。謹慎中には、男女の分離がある、あるいは「外部との交通の制限、雑音の禁止、結んだり曲げたり火に焚いたりしてはならぬ物の色々、乃至は或種の手を著けぬこと」、そして獣肉などの制限があった。「斯うして静かに家の中の生活を続け、稲は稲村に積み上げたまま、祭りの来るまでそっとして置いた」収穫を終え、神を迎えて饗宴するにふさわしい身となるために、一ヵ月以上の斎忌が必要と感じられた長い時代があった。十一月の祭りは、こんなことを示している。稲を取り入れて後、慎重に祭の準備をし、その後不自由な一ヵ月余りの生活を、家の中で黙って、音も立てずに送る。我が身の穢(けが)れから抜け出すために、いろいろなことを自分に禁止する。日常使う火は、それ自体が穢れていたので、これに触れるのも制限する。針仕事なども禁じられている地域が多い。禁止のひとつひとつには、その理由を説明できなくなっているものもある。しかし、何が穢れで、なにがそうでないか、これを明らかに直覚していることは、祭り人にとって一番大事なことだっただろう。祭がただひとつの「まつりごと」であった時代の記憶なしには、こうした
    直覚は、祭り人の心に棲みつきはしない。祭という饗宴の本体は、そのようにして迎えられる。・・・・
     暦のない時代、農耕作業と神ごとのみが一年をつくる、道筋であった。
 

「穴門」ナカトの正体②

 投稿者:chikara  投稿日:2017年 4月 2日(日)13時11分6秒
返信・引用
   第二次長州征伐の時代背景から出来事は山根俊久「石見の郷土史話 上巻」1978で理解できる。
 いまひとつ、大島幾太郎の「那賀郡史」によると、鳥取藩の家老の従軍日記によれば、益田の敗戦の前日。古市場の「禮光寺」で一泊している。日記の中にこの地には米もなく、あるのは「柿」と「甘藷」だけと記載。古市場の軒数と湊浦の軒数を書いている。昔は「湊浦」が古市場であったことを耳にしたのであろう。しかし「穴」の話はない。史実に従えば十八里を行き戦いが不利と見るや大麻まで引き返したことになる。往復行軍であった。
 

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