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(無題)

 投稿者:chikara.2  投稿日:2021年 3月 8日(月)06時51分34秒
返信・引用
  江戸時代の資料の一部

 [八重葎やえむぐら]石田初右衛門1817(1999)  3/12

*邑南町立図書館・かわもと町立図書館・浜田市立中央図書館・益田市立図書館など所蔵。
 
 

(無題)

 投稿者:chikara.2  投稿日:2021年 3月 8日(月)06時39分58秒
返信・引用
  江戸時代の資料の一部

 [八重葎やえむぐら]石田初右衛門1817(1999)  2/12

*邑南町立図書館・かわもと町立図書館・浜田市立中央図書館・益田市立図書館など所蔵。
 

◎ひとりごと

 投稿者:chikara.2  投稿日:2021年 3月 8日(月)06時30分38秒
返信・引用
  江戸時代の資料の一部

 [八重葎やえむぐら]石田初右衛門1817(1999)  1/12

*邑南町立図書館・かわもと町立図書館・浜田市立中央図書館・益田市立図書館など所蔵。
 

「高島」の所有権は誰!

 投稿者:chikara.2  投稿日:2021年 3月 6日(土)10時32分39秒
返信・引用 編集済
  「やえむぐら」の石田氏本では!
那賀郡江田村の箇所に高島の表示がある。
 高島の全住民がネズミの大量発生で逃げ出している。逃げ出した先なのか?江田村は現在の江津市であるが、浜田藩は島民を説得して高島へ戻させたが所有権がどうなったかわからない。本居宣長が江戸時代初めは「祇園島」と呼ばれていたと書き遺している。私の推測だが、徳川吉宗誕生の時の巡検使が「行基図」をもってまわり。地名・島名・川名・山名を換えさせたようだ。その時「高島」の名にかわったようだ。行基図はおそらく「鷹島」であったはず。石田氏はなにもふれていない。
那賀郡三隅町時代、明治の頃の古市場村地図があったが三隅町最後の建設課長とその前の課長がバラバラにしてしまった・切り取られた。手がかりは?江津市や益田市が知っているのか?
 

江戸時代中期~後期「美濃郡定置網所在地」

 投稿者:chikara.2  投稿日:2021年 3月 5日(金)11時53分32秒
返信・引用
  資料
美濃郡定置網 文久元年1861年湊浦漁業組合作成絵図(上図)
「歴史と民俗」神奈川大学日本常民文化研究所論集33 2017  P248
*広島県北広島町立図書館蔵
 

◎ひとりごと つづき

 投稿者:chikara.2  投稿日:2021年 3月 2日(火)11時44分15秒
返信・引用
   鐡の女2
「亀寿」は「清茂」の妻として、「清右衛門」の母として古市場原田家を支えた。
原田家の三大工事
①古市大堤の(第一、第二ダムの複式ダム)建設。日本最初の三角測量による設計。
②漁港の整備。古湊の石垣の防波堤の作成。
③三隅川河口の整備、干拓(川の流れを変え、針藻島と下古市の間を埋め立て領地を増やす)。
*浜田藩・松平周防家に貸した金の返済の一部を土地(領地)で貰う。那賀郡古市場村で三隅川(当時は鶴川や澄川と呼ばれていた)西側と「高島」貰う。寛政七年八月十八日。同日、岡崎代官所の廃止。

 

◎ひとりごと

 投稿者:chikara.2  投稿日:2021年 2月27日(土)02時33分11秒
返信・引用
   鐡の女1。
「亀寿」浜田藩松平周防家・国家老岡田頼母(ひとり)娘として生まれる。
浜田藩の借金した、現在津和野町青原「原田甚四郎家」(次男坊)「清茂」に嫁いでいる。父親の頼母(たのも)も藩がお金を返せないのを見越しての人質であった。亀寿当人も人質を認識していたと推測できる。
 

◎ひとりごと つづき

 投稿者:chikara.2  投稿日:2021年 2月21日(日)06時12分3秒
返信・引用 編集済
   古市場・原田家は初代は「清茂」で父親は現在津和野町青原の「原田甚四郎」庄屋で鉄山師・新田開発で浜田藩や津和野藩で活躍した人物の次男坊。そして、嫁(妻)の「亀寿」は岡田頼母(たのも)のひとり娘だったようだ。
亀寿も藩校、長善館(ちょうぜんかん)~伊勢・松阪の本居宣長のもとで修行(勉学)したものと思われる”(秀)才女”。

 

◎ひとりごと

 投稿者:chikara.2  投稿日:2021年 2月20日(土)09時32分28秒
返信・引用 編集済
   私の古い古い記憶から、江戸時代中期で竹島密貿易事件で殺されたか切腹したかわからないが浜田藩・松平周防(すおう)家国家老・岡田頼母(たのも)の墓が、私んちの墓所に存在した。しかし、昭和44,5年頃、破壊されてしまった。当時の県知事は田部長衛門、三隅町長は三浦敬尚。突然の出来事であった。私の父も不快感を覚えていた。昨日、浜田市の本庁舎を訪れて、歴史的に意味のある墓であるので、総務課に伺い墓石をどうしたのか、探してほしいともうしでておいた。墓所の山ごと削り取られた、黒っぽい小さな墓で、墓から海方向に目を転じると高台(眼先に丘があり)その向こうに「高島」がうかがえた。できることなら墓所の再現を希望するむねを伝えた。
*松平周防守(かみ)はまだ大老職のない時代に老中首座職であった。寝水のようにお金をつかったらしい。またその頃、江戸の二度大火事(たいか)のもらい火で藩邸を失うとともに、三河・岡崎の川堤防寄進工事と、浜田城下の大火事とで藩財政は火の車であったそうだ。
 

歴史・民俗・口頭伝承の研究

 投稿者:chikara.2  投稿日:2021年 2月14日(日)12時02分56秒
返信・引用
 
 天武八姓と甲子の宣 ・河瀬文庫「史學研究第245號」 廣島史學研究會2004   4/4

*島根 邑南町立図書館本館蔵
 

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